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2011年1月13日木曜日

HBRの記事から

今回は、Harvard Business Review(HBR)のJanuary–Februaryの中から戦略論の大御所 Michael E. Porter(Mark R. Kramerとの共著)のArticleであるThe Big Idea: Creating Shared Valueについてとりあげたいと思います。

今回の記事を読んで、「Porter も随分変わったな~」という印象を持ちました。Porterといえば、5 ForcesやValue Chainなどを駆使して、如何にして(競合企業を出し抜いて)持続的な競争優位を実現するか、という戦略論を精緻に展開する点に特徴がありました。

しかし、最近の短期的な財務目標(利益)を目的とした企業活動、従業員や(地域)社会の便益を犠牲にして利益の最大化を図る企業活動は基本的に誤りであり、こうした行為は企業の長期的な利益や競争優位の実現には寄与しないと批判します。(周囲の利益を犠牲にして自社の利益を追求する)偏狭な資本主義から脱し、より広く、長期的な視点から資本主義を捉えなおすことが必要というわけです。

今回はShared Valueという新しい概念(概念自体は2006年のArticleで登場)を提唱しています。Shared Valueとは簡単に言えば、自社の長期的利益の実現を通じて、同時に、社会全体の便益や経済状態(生活水準)も向上させるという方針あるいは企業活動を意味します。要は社会の利益と会社の利益はtrade-offではなく、両立できるものと捉えるわけです。Shared Valueの追求を通じて、持続的な経済成長が実現できると主張します。

企業の具体的事例やMicrofinanceなどの新しい分野への取り組みを通じて、先進的な企業が如何にしてShared Valueを実現しているのかを紹介しています。一つの具体例として、UnileverのProject Shaktiがとりあげられています。

Shared Valueと似たような概念にCSRがありますが、両者は異なると主張します。CSRは主に企業のReputationに関係し、本業との関連性が薄いものであるのに対し、Shared Valueは企業本来の活動(得意とする領域での活動)を通じて、自社と地域社会の双方の利益を極力大きくすることを意味します。換言すれば、CSRは一定の大きさのPieを企業と社会との間でどのようにシェアするかという配分の問題であるのに対して、Shared ValueはPie自体を大きくするという発想ということでしょうか。

さらに、Shared Valueを追求するためには、新しいMind-setを持った社会起業家の育成が必要であり、Business Schoolも従来の狭い資本主義的な価値観に基づくカリキュラム編成ではなく、新しい視点からカリキュラムを見直す必要があると指摘しています。

とは言え、さすがに経済学者らしく(PorterはHarvardで経済学博士号を取得しています。)、Qualitativeなものではなく、Economic Valueをベースしたカリキュラムには変わりがないとしています。また、Shared Valueも定量化した目標値や期限等を定め、Performanceを測定することが重要だと指摘しています。余談ですがもう一人の大御所であるMarketingのP. KotlerはMITで経済学博士号を取得しています。どちらのGuruもその理論の背景はEconomicsにあることは容易に想像できます。

なお、記事の概要はこちらのPodcastで聴くことができます。音声はクリアで非常に聞き取り易いですが、InterviewerとのQ&Aというよりは、Porterの独壇場(?)といった感じです。

Porterの指摘は確かに的確です。企業の短期的な利益追求姿勢が、企業の長期的な競争優位性を奪っているのは事実だと思います。特に、コスト削減目的のOutsourcingによって従業員の企業に対するコミットメントが低下したり、あるいは、企業内のKnowledgeの蓄積が妨げられるといった弊害があることも事実でしょう。

しかし、『個々の企業がShared Valueを追求すれば、社会全体の利益も実現されるはず』という楽観的な考え方には少し疑問を感じます。Shared Valueを追求するために、企業間(あるいは企業と政府)でAllianceやCollaborationが必要になるケースは今後益々増加するでしょう。しかし、基本的にはSurvival of The Fittestを前提とした競争状況にあることは変わりはありません。社会利益の犠牲の下、短期的な利益に走る企業(いわゆるFree Rider)が登場する可能性もあります。そしてその数が増えてくれば、Shared Valueを追求するIncentiveが薄れる可能性があります。こうした経済人の(悪い?)側面が新しい価値観を持った社会起業家によって完全に払拭される可能性は薄いと思われます。

この点、(Shared Valueに反する行動をとる)Free Riderに対する一定のSanctionの制度化等の検討も必要ではないかと感じました。しかし、Sanctionにも問題点があります。Penaltyを払う方が得だと判断すれば、利己的な行動を取り続ける正当な理由を与えてしまい、結果的に、Sanctionが望ましい行動(Shared Valueの追求)には結びつかない可能性もあるからです。

Dan Arielryの著書では、一旦Market Norms(売買のように即時に反対給付が必要となるもの)が優勢になるとSocial Norms(友人間の好意のような即座の返報が必要ないもの)に再び戻るのは極めて困難だと指摘しています。

例えば、保育園(イスラエル)の子供のお迎え時間に遅刻する親を減らそうと、保育園側が罰金制度を導入したところ、罰金制度導入後にかえって遅刻が増加し、罰金制度を廃止した後も、遅刻する親の数は減らなかったという興味深い実験結果が報告されています(注)。遅刻に対する罪悪感や気まずさ(Social Norms)が罰金を払うというMarket Normsに置き換わってしまうと、「罰金=遅刻のコスト」と割り切ってしまい、かえって望ましくない結果(遅刻の増加)へと導いてしまう可能性があるわけです。

最近話題の『排出取引』もMarket Normsによる解決を図ろうとする例だと思います。確かに、適正な排出量や適正な取引価格の設定という問題も難しい問題を含んでいますが、Social NormsでなくMarket Normsに依拠することで、総排出量の大幅削減という目的が実現できないという危険性もあるような気がします。

低いコストで望ましい行動に向かわせるためには、Market Normsの世界ではなく、Social Normsの世界にいかに踏みとどまることができるかという問題を検討する局面が増えてくるような気がします。Sanctionも経済的なものでなく、(不名誉や恥といった)社会的なSanctionの方が良いのかもしれません。

もっとも、社会的なSanctionが機能するためには、ひとえに我々個人のMind-setとか(Social Normsの重要性を教え込む)教育に関わってくるような気もします。 

考えれば考えるほど難しい問題です。

(注)Uri Gneezy and Aldo Rustichini. 2000. A Fine is a Price. Journal of Legal Studies.   

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